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こどもたちの土台<国語力ってなに>①

2024年11月30日23:08, 高橋 弓子

YMPエデュでは、子供たちの無限の可能性を開花させる土台づくりと、
その土台に積み上げる確固たる学力を築くお手伝いをさせていただいています。

ピアノという楽器に取り組むことも、音楽を学ぶことも、単なる演奏技術習得のみならず、
子供たちの土台づくりに大きく役立っています。

さて、各指導においていつも感じること、それは
よくいわれる「国語力」の低下です。
あまりにアバウトな「国語力」、いろいろな解釈はありますが、ここでは
「日本語(母国語ですね)をあやつる力」と思ってください。


毎日の指導の始めに、必ず私は、子供たちに問いかけをします。
それは、たわいもない日常会話、世間話です。

今日体育あった?
給食なんだった? のような簡単な質問もあれば

今週はどんなふうに過ごした?一番楽しかったことは?
宿題はどんなふうに進めた?
何に注意しながら取り組んだのかな?

など、イエスorノーでは答えられない質問、さらには

ねえ、もし、いま突然この教室に、サンタさんが現れたら、どうする??
もしも、アラジンの魔法のランプが手に入ったら、何をお願いする?
このぬいぐるみが今お話ししたら、なんていうかな?というもしもシリーズ。
もちろん、突然そんな謎かけをしているのではなく、日常会話の延長線上で、
じゃあじゃあ、こうだったら?というようなノリです。

ここからおそろしくいろんなファンタジーを繰り広げ、レッスンがはかどらなくなる子もいれば、
(そういうタイプのこどもにはもしもシリーズは滅多に発動させません笑)
えーっと考えて黙り込んでしまう子、さくっと短文で早く終わらせたい派…様々な反応です。

もちろん、この反応なども、すべて指導の手助けとなります。
アプローチをかえて指導しますので。(その話はまた次回)

どのタイプのお子さんも、総じて、今の子供たちは国語力が低い。

どういうことか?

…「聞く力」です。
「聞く」力の低下、これは多方面の指導者の方もよく言われます。
「聞く」力の低下が、国語力を停滞させ、学力全般の伸び悩みにつながっているというものです。


今の子供たちにとって、「聞く」は「聞こえている」と同義だと言えます。
先生の話も、カフェの音楽のように、通り過ぎていく音でしかありません。

それでは、「聞く」というのはどういう行動でしょうか。

「聞く」とは、内容や状況を理解できるところまでを指します。また、
先生の言うことを聞く、という「聞く」は、その内容を理解した上で従うことまでも指し、
さらに 行き先を聞く、は、こちらから尋ねるところまでを指します。

つまり、「聞く」は、コミュニケーションの始まりなのです。

「聞く」ことができることで、はじめてコミュニケーションがスタートします。
話の意図を状況含め理解し、「答える」、もしくは、「答える」場面も想定しながら内容を把握すること、この「聞く」行動なくしては、コミュニケーションできないのです。

ここで話を戻します。授業前の私の問いかけの返事を手短に済ませたいキミにとって、
先生の質問は自分にとって必要でなかった、
「聞こえている」だけでよかったともの、と考えることができます。
聞きたくもない、答えたくもない子もきっと中にはいらっしゃるでしょう。

いいんです、そういうものです。子供なんだから。
目の前の文房具や楽器に触れたい気持ちや、
おなかすいたなあ、や、はやく終わらないかな…で頭の中はいっぱいかもしれません。
きっと、もっと私が面白いトークができれば、少しは耳を傾けてくれるのかも。
その点については日々精進あるのみです。

ですが、よく考えてみてください。
YMPエデュでは10名以下の少人数制授業です。または、1対1のプライベート。

私の問いかけが、まるで、テレビやYouTubeの画面の中の音声と同等か、
それ以下の情報と、子供たちの脳内で判断されているのであれば、
もっと大人数の一斉授業である学校ではどうでしょう?

朝9時から15時までの6時間、そのうちの5時間を、「聞こえている」だけで過ごしているとしたら?

今日は何もしない日!と、私たち大人がささやかに楽しむ、
1年にたった何日あるかというような思考しない時間を、
もしも子供たちが日常的に、しかも週の半分以上過ごしているのであれば、、、
それは恐ろしいことだと言わざるをえません。

私が、
小学校の授業の半分以上が体育と図工と音楽だったらいいのに!
と思う理由はこれです。
アタマを暇にしている子供たちのなんと多いことか。

それなら、聞かずとも、見よう見まねで身体を使い、指先を使い、
身体からの刺激から思考させる方がよっぽど脳は発達します。
これも立派な、自己とのコミュニケーションですから。


長くなりました。

たくさんお話を聞かせてくれるけれど、国語力が不足している、そんな子供たちのお話は、
また次回。

根っこを育む教育

2024年11月30日23:07, 高橋 弓子

能力開発とは

とっても当たり前で
つまらない話です。

積み木教室
右脳教育
才能開発系の指導を受けて来た子達が

フツーのお勉強塾で、紙のお勉強、
国語算数に移行し

8割の子が

壁にぶつかります。

コレにママ達はショックを受けます。

あんだけやって来たのに、なんで⁉️と。

でも、これは当たり前のことなんです。

才能開発教育は、そもそも

子ども達が将来大きく羽ばたける力を
つけていこうというもの

学習塾は

学力を上げるためのもの

ほら、コンセプト、全然違いますよね。

才能開発に長く通って、
たとえ、才能というものが、
かりにしっかり開発されていた(?)としても、
テストで点が取れるとは限らないのです。

よく、子どもの成長を植物🪴に例えますよね。

才能開発分野は、揺るがない根を土の下に広く太く伸ばすこと。

受験塾、学習塾は、どれだけ美しく大きな葉をつけ、枝ぶりも良く魅せるか。どう見えるかを、他者が判断することです。

テストで点を取る、志望校に合格をいただく、ということはそういうこと。

…土の下に隠れている根っこは、掘り起こしてみないと誰にも見えないんですよね。ここを育てようという才能開発業界、あっぱれでもあり、胡散臭くもあり。笑。


さて、しっかりした根が這ってこそ、立派な葉をつけ、やがて大きな花を咲かせる、当たり前です。

ですが、例えば、立派な枝葉だね、100点!と、もしもみんなに言われたかったなら、


『他者目線』

を意識したお手入れが、多少必要かもしれません。

ここが、受験やテストに通用するアウトプットの部分です。

宝石の岩石も磨いてはじめて宝石と気づかれる、そう、その過程です。

もちろん最初から発光していて、一目で美しいサファイアとわかる場合もあるでしょう。

でも、それはごく一部。

この、磨くお手入れの過程が、おざなりになっていないか?とたいへん気になっています。

受験テクニックを学べば、合格は近づくし、テストも要領さえ学べば楽チンです。

でも待って、今、そこ、アタマ使った?考えた?どんな場面か想像してみた?

あー、何算ね、ハイハイ、やったことある。
指示語?指示語は直前に書いているからこれでしょ!

こんなアウトプットの仕方では、今まで身につけた根っこから、十分な栄養を引っ張り上げることが、やがてできなくなります。
そう、せっかく開発された能力が発揮されません。

根腐れってやつですね。

また、こんなパターンも。

未発達の根から出た未熟な芽に、過剰な光や栄養を与えて、急激に無理な成長をさせ、一時的に、それはそれは美しいフォルムに仕上げる場合があります。

店頭に並んでいる姿を見て、私たちはその美しさにきっと惹かれるはずです。

しかし、持ち帰った後、早々に枯れてしまうような弱い植物だったとしたら…

受験や学力テストで必要なものは、他者から○がもらえるだけの表面的な出来高です。
はっきり言ってしまえば、根がはれていなくても、大人の入れ知恵によるテクニックを身につければ、それはそれは美しく、華麗に魅せることができます。そう、100点も合格もできてしまうケースがあり得ます。

受験塾のゴールは入試合格ですが、
子供達のゴールはいつでしょう。
やがて大人になり、たくさんの花を咲かせ、立派な実をつけ、、

その根は、入学後も、すくすくとまっすぐに伸びていける栄養を取り込めていますか?
社会へ羽ばたき、たとえ挫折に直面したとしても、それを乗り越えていける頑丈さを身につけていますか?
人生の最期まで、広く広く土を捕まえて支えてくれる大きなものですか?

目には見えない、根っこの部分のお話。

ともに歩く

2024年11月30日23:06, 高橋 弓子

ともに歩く

日々、子供+保護者とのお付き合いで感じること

よくお話しすることがあります。

============
子供の前を歩きますか?
それとも、横?
===========



そっとそばで見守り、時に励まし、愉し、
また時には喝を入れて…わたし達ママには沢山のお役目が担わされています。
とっても重労働です。

子供を守り育む…

マジで大ごとですよね。

ああ、やめたい、いっそのこと、ぜーんぶ放り出したいって、私も長女が小さい時
よーく思ってました。
とってもわかります。
思い出すと泣けてきます。

では…

ハイ、やめてみましょう!


こんな風にキツく感じちゃっている時点で、
ママ達はすでに頑張りすぎています。
というか、やりすぎている!

子供の前を歩いて

ほら、ここに石があるからつまずかないでね
ここはぬかるんでいるから気をつけて

ママが先に見て感じたことを
お子さん達に伝える

これでは、見る、知る、感じる経験を奪ってしまいます。

子供達は、大人と同じように

自分で見て、知って、感じたいのです。


子供達の後ろを歩いてみませんか?

転ぶかもしれない
危ないかもしれない
急に走り出すかもしれないけれど

ママ達も、ちょっとの勇気を出して
子供達の冒険を、後ろ近くから見守ってみませんか?

お勉強でも、習い事でも同じ。

ママが子供達のスケジュール管理
しすぎていませんか?
宿題のお世話してませんか?
忘れ物しないように毎日チェックしてませんか?

忘れたっていいんです。
宿題できてなくても大丈夫。
失敗という経験は、人生の宝物です。


子供達の、学ぶチャンスを奪わないように、
ぜひ、後ろから歩いてもらえたら、

きっと子供達は
背中に感じる大きな安心感のもと、
のびのびと進んでいけることでしょう。

「学育」の新たな視点

2024年11月30日23:05, 高橋 弓子

与えられる教育ではなく、自ら学ぶ=学育

良かれと思って与える教育が、子供達のみらいを奪ってしまうのではないか…

不運な子供達に出会うたびに、子供達に環境を与える立場である私たち大人が、どれだけ重要な役割であるのかと思い知らされます。

計算をひたすら毎朝させられ、数字の羅列に嫌気が差している子。
英検合格の為に
好奇心で始めたはずのピアノなのに、決まり事が多すぎて嫌々習っている子。
きついトレーニングこそが上達だと信じて、体に無理をしいて頑張ってしまっているスポーツ少年少女。
なんとなく、習い事に通っていたら、ぼんやり過ごしている子。


この子たちは、この習い事、本当に必要でしょうか?

一方で
何においてもしっかりと取り組み、存在感を遺憾無く発揮できる子に成長していく子供達もいます。
この子たちは、たまたま、自分たちが力を発揮できる分野に出会っただけではありません。
ある分野で禿筆できる子供達は、どの分野に置いても、たとえそれが今初めて出会ったものとしても、しっかりと対面し、熟考し、
どのように取り組めば、自分の欲しい結果が得られるのか、論理的に組み立て、実行することができるのです。


問題解決能力です。

与えられ、教えられることを我慢して訓練することは、学びではありません。
学びは、自らでしか行えません。そして、学びは達成の喜びが伴ってのみ成立します。

好奇心を持って取り組み、生まれた疑問や問題を分析するために情報収集し、自ら思考し、試してみる。

失敗を元に、また分析、思考、チャレンジ。

これがやがて『自分でできた!』という達成にたどり着けた時、子供達の脳内はきっとドーパミンが溢れていることでしょう。

この成功体験の繰り返し、が問題解決能力を強く太くしていきます。

問題解決能力をゲットした子供達は、それはもう、あらゆる分野で引っ張りだこです。

勉強など皆無だった子が、突然受験すると言い出し、偏差値を爆上げしたり
今まで引っ込み思案だったのに、クラスをまとめ文化祭をしきる能力を発揮したり
ギターを始めたらどハマりして、プロ級にうまくなったり…

自ら学ぶ力に勝るものはありません。

我々大人は、自ら学ぼうとする子供の芽を摘まないこと。芽は必ず、どこかに芽吹いています。

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